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      Yaocho est une très serieuse problème.



テレビを見ていると、ビートたけしの番組をやっていた。

サンデル教授という人物が、たけしのIQ200という番組で、日本の問題について出演者に問いかける形で考えていくものだった。

話は、政治の公約を絶対守らねばならないかどうかについて、北朝鮮の拉致問題についてなどがあげられていたが、その中でも、相撲の八百長の問題を特に興味深いと思った。

そもそも八百長とは、囲碁の非常に得意な八百屋の長兵衛という人物が、お得意さんのためにわざと囲碁に負けてあげていたのが語源なのだとか。

これについて、彼は、質問することで出演者の意見を導こうとしていたが、そのやり方が、私はどうしても、彼自身の望む答へと引きつけているような気がしてならなかった。つまり、八百長はいけないかという質問に続けて、

「嘘は絶対にいけないか」

という質問をする。もちろん、一般論で言えば、いけない。ところが、そこに彼は、特殊な例を付与する。そのことによって参加者から「一概に悪いとは言えない」という結論を引きずり出すのだ。その例として、

親子での腕相撲で、親がわざと負けてあげること

があげられていた。ほかにも、兄弟の不正行為を見つけてしまった場合、学校側に報告するかや、友人の最低な出来の作品の感想を聞かれたらどう答えるかなどの質問やシチュエーションも実際やってみたりしていた。

これらについて、結果行う行為は、感情面や相手側を考えて行動を起こすという点で共通しているらしい。だから、その人のためならば、嘘、もいいというわけである。そこには言外に八百長も許されるだろうというニュアンスを読み取ることができる。

しかし、八百長は国技とされている。国技はもともと五穀豊穣を願う儀式という宗教的役割を多くになっているのだから、八百長は許されるという人もいた。逆に相撲は一つのスポーツをみなされているのだから、やはりフェアでなければならないという人もいた。

私は、語源や、歴史、感情面から「負けてあげる」ということが、一概に悪いことではないということを理解した。しかし、相撲においては、そこにそれぞれの力士の賞金や、金銭の面でのやり取りが存在するということを考えていないのではないかと思った。

「負けてあげる」。それはいい。だが、そのために支払われた金銭は?金のやり取りをしておいて、奇麗事を並べていいのか。それは、許される行為なのか。

私は、納得がいかなかった。

18世紀、エマニュエル・カントは嘘は絶対にいけないが、誤解を与えるような発言は許容してもいいという考え方であったらしい。サンデル教授は最低な出来の作品に対して、「今まで見たことのないような作品」、「信じられないような作品だ」ということで嘘をつかずに切り抜けることができると言っていた。確かにこれだけでは、最上級のほめ言葉なのか、激しい批評なのか判断することはできない。相手に誤解させることで、発言の内容を聞き手に想像させるのである。これは、面白いと思った。

ひとまず八百長の話だが、今現在使われている八百長と昔の八百長の間には、大きな意味の隔たりがあるのだと思う。身内同士の思いやりともとれる八百長から、不正の色の濃い意味合いへ。

私は八百長は少なくとも相撲においてはすべきでないと考えている。八百屋の長兵衛だって、こんな使われ方を知ったら憤慨するだろう。


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