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Elle chante tout seule dans le monde.
歌を歌うということは、世界と調和することだ。
久しぶりにカラオケへ行った。西新の近くにあるカラオケで、行ったのは今年は初めてだ。一緒に行ったのは、友人二人。フリータイムで3時間ほど歌ってきた。
一人の友人が、カラオケで曲の予約をしていた。彼女は連続で同じ歌手のメドレーを4曲入れ、その後も気に入ったものを次々と予約していった。
私は少し驚いてしまった。彼女が歌を歌いたいのだということはわかる。しかし、ここには、私ともう一人の友人がいるのだ。彼女はまるで一人でカラオケにでも来たかのように遠慮なく曲を入れていってしまう。
もう一人の友人が、自分たちの曲を間に割り込めるよう予約することでなんとか順番に歌うことができた。その後、5曲連続で曲を入れた彼女は、高いヒールの靴を履いたまま、備え付けのテーブルにかかとを載せ、買ってきたおにぎりを食べながら歌った。時折、疲れたとか、自らの入れた曲に飽きたとか言いながらも歌い続けた。私と友人が黙って見ていると一緒に歌うよう誘いかけたが、私は彼女の歌う曲を知らなかった。
私や友人が歌う番になると彼女は一緒に知らないところも遮って歌い、飽きるとソファに寝転がってぼんやりとしていた。
私は不思議に思った。彼女は歌うのが好きであるという。そして、よく一人でカラオケに来るのだとも言っていた。だから、彼女にとってカラオケの場にいるということは、彼女の王国に入りこむということなのだろう。彼女の王国の中では彼女が一番で、他に入り込む余地はない。
しかし、実際の生活の中では異なる。いかなる場合においても、人や場所との調和を考えて生きていかなければならない。カラオケという一つの空間においても、そこに他者が存在するならば、そこは一人だけの世界ではない。彼女はそれに気が付いているのだろうか。
他者を排除し、生きていくのならば、どんなわがままでも許されるだろう。そこにいるのが自分一人であるならば。
自分一人で歌う歌は、誰の心に訴えかけるわけでもない、評価して貰うわけでも、自分を認めてもらうわけでもない。ただあるとすれば自らを慰めることだろうか。
歌を歌うということは一つの世界、それも自分以外の大勢の人がいる世界に向けて発信することではないだろうか。そこには一つの調和が生まれる。誰にも認められない、気がつかれることのない、自分だけが満足するので良いのならば、自分だけの王国に閉じこもっているだけで良いのだ。ただ、外に向かって歌うというのならばその時は、王国の外の荒野を、じっと見つめる眼が必要になってくる。
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