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Centre Pompidou est une nouvelle symbole ?
なぜ、人は「もの」を残したがるのだろうか。
「現代のエッフェル塔」。
今日の授業中、ロラン・バルトの『エッフェル塔』という作品を解読している時に教わった。フランスにおいて、現代のエッフェル塔と言われている建物は何か?
それは、ポンピドゥーセンターである。エッフェル塔は、建設以前、建設途中、また建設後にも多く、パリ市民から批判を受けてきた建物だ。
現代のエッフェル塔と言われる理由は三つある。
一つは、新しすぎたということ。その素材や見た目、場との調和から見ても猛烈な抗議が起こるほどであった。
二つ目は、一つ目と関連しているが、建設自体が危うくなりかけていたということ。建物の周りには嘆願書を持った民衆たちが詰めかけるというシーンもあった。
三つ目は、この建物が「見る・見られる」の二つの役割を持っているということである。建物を眺めること、それは一つの行為である。そしていざ建物に入ると、そこにあるのはパリの風景だけだ。建物の内部に入ってしまえば、建物の外にいる人から自分も含めて見られる対象となる。主体と客体の逆転が起こっているのだ。これらのことは全てエッフェル塔と共通している。
ただ、問題にしたいのはこの共通点ではない。人が、「もの」という形で自らの存在を残したいと思うことについてである。
ポンピドゥーセンターは、フランスの首相、ジョルジュ・ポンピドゥーによって作られた。偉大な人物は、その力を誇示するために何らかの目に見える形で物を残したがる。無論、一般的な人の多くが考えることであるが、それの達成にはいくつかの条件が伴う。
ナポレオンも権力の象徴として、パリに凱旋門を作らせたが、完成する前に彼は亡くなっている。皮肉なことに彼が凱旋門を通ったのは、生きている時ではなかったのだ。
人は、何らかの形でものを残したがる、恐らくは多くの人の記憶に長くとどまるために。願わくば、永遠に。その対象は、建造物であったり、肉体であったり、歌であったりと様々だ。
私が今こうして、「書く」という行為も自らの存在証明の手段の一つだろう。誰かの記憶に留まり続けていたいというのは、多くの人が抱く欲望だ。しかし本当にその欲望をかなえられる人はごくわずかだ。
全てを覚えていることはできないし、記憶もいつかは薄れ、あるいは変質し、消えていく。ものを残すことに躍起になるのではなく、この場所に今いるということを、その空気のように当たり前な幸運を、喜ぶだけではいけないのだろうか。
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