忍者ブログ
[9]  [8]  [7]  [6]  [5]  [4]  [3]  [2
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



Centre Pompidou est une nouvelle symbole ?


なぜ、人は「もの」を残したがるのだろうか。

「現代のエッフェル塔」。

今日の授業中、ロラン・バルトの『エッフェル塔』という作品を解読している時に教わった。フランスにおいて、現代のエッフェル塔と言われている建物は何か?
それは、ポンピドゥーセンターである。エッフェル塔は、建設以前、建設途中、また建設後にも多く、パリ市民から批判を受けてきた建物だ。

現代のエッフェル塔と言われる理由は三つある。

一つは、新しすぎたということ。その素材や見た目、場との調和から見ても猛烈な抗議が起こるほどであった。
二つ目は、一つ目と関連しているが、建設自体が危うくなりかけていたということ。建物の周りには嘆願書を持った民衆たちが詰めかけるというシーンもあった。
三つ目は、この建物が「見る・見られる」の二つの役割を持っているということである。建物を眺めること、それは一つの行為である。そしていざ建物に入ると、そこにあるのはパリの風景だけだ。建物の内部に入ってしまえば、建物の外にいる人から自分も含めて見られる対象となる。主体と客体の逆転が起こっているのだ。これらのことは全てエッフェル塔と共通している。

ただ、問題にしたいのはこの共通点ではない。人が、「もの」という形で自らの存在を残したいと思うことについてである。

ポンピドゥーセンターは、フランスの首相、ジョルジュ・ポンピドゥーによって作られた。偉大な人物は、その力を誇示するために何らかの目に見える形で物を残したがる。無論、一般的な人の多くが考えることであるが、それの達成にはいくつかの条件が伴う。

ナポレオンも権力の象徴として、パリに凱旋門を作らせたが、完成する前に彼は亡くなっている。皮肉なことに彼が凱旋門を通ったのは、生きている時ではなかったのだ。

人は、何らかの形でものを残したがる、恐らくは多くの人の記憶に長くとどまるために。願わくば、永遠に。その対象は、建造物であったり、肉体であったり、歌であったりと様々だ。
私が今こうして、「書く」という行為も自らの存在証明の手段の一つだろう。誰かの記憶に留まり続けていたいというのは、多くの人が抱く欲望だ。しかし本当にその欲望をかなえられる人はごくわずかだ。

全てを覚えていることはできないし、記憶もいつかは薄れ、あるいは変質し、消えていく。ものを残すことに躍起になるのではなく、この場所に今いるということを、その空気のように当たり前な幸運を、喜ぶだけではいけないのだろうか。



PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
フリーエリア
最新コメント
最新記事
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者ブログ [PR]

material by: * Photograph by:Sayo(Le*gume)