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Le promenade continue éternellement.

 
 最近、学校までの道のりを歩いている。徒歩で30分以内に学校に付くことができるのだ。しかしこれが最近の体重増加にとって良い歯止めとなってくれそうな気がする。散歩をするといつも見えない景色が見えてくるから不思議だ。そして私は、あることを思い出していた。

 ゾラは、中等学校の時代をフランス南部のエクソンプロヴァンスで過ごした。その時、彼は後の画家セザンヌとずいぶん長い距離を散歩をしていたらしい。私も、2009年の1月から5月のぎりぎり最後までを、このエクスの街で過ごした。私はここでホームステイをしていたのだ。

 

 200956日金曜日。この日、私はゾラとセザンヌになった。

 

 その時はこんなに印象深い日になるとは考えてもいなかった。私は、その頃ずいぶんと慣れたこのエクスの街で、一つの挑戦をしてみたのだ。それは、学校から家までの道のりを歩くこと。バスで20分の道のりだ。これは日本の場合、かかる時間から考えて、バスで行く天神から西新までの距離とそう変わらないだろうと思われた。

私は、フランスでは高価なプラスチックのタッパーに、バスティコ米で作ったおにぎりを詰め、まずはバスでエクスの中心地へと向かった。中心街へ向かいながら、バスの中でその道のりをゆっくりと眺め、道を覚えこんでいった。

 それから、エクスでの授業を終えると、そのままバスには乗らず、ホームステイ先の家へと向かって歩き出した。最初、いくつかの通り道を自信なく思ったが、なんとか進むことができた。しかし、どうだろう。ところどころ、歩行者用の道がないのだ。困惑しながら立ち止っていると、車から男の人二人組に声をかけられ、慌ててその場を離れた。厄介事に巻き込まれてはいけない。

そのせいもあって、ひたすら早歩きで、果敢にも歩道のないところを車が来ていないのを見計らって渡ったり、自転車がぎりぎり通れるような白線が書かれたところを頼りない気持ちで歩いたりした。道自体が高い橋のようになっている道もなんとか渡りきった。

 その日はミストラルと呼ばれる季節風が強く、たちどまると凍えそうな日であった。私は、高速でバスや車が時折走るのを横目に、風に向かって大声で歌を歌ったりした。誰もいやしないのだ。おそろしく長く遠くまで広がる平原と道路。果てしない道のり。人は私だけだ。人家には人はおらず、犬の唸り声がきこえる。

ただ、空だけは、本当に綺麗だった。この景色を見つめながら、どこか非現実感を抱えて、私は歩き続けた。時間の感覚もなく、(出発した時刻を忘れてしまった)時折点在する、日本の公衆トイレのような形の汚れて簡素なバス停留所で風を防ぎ、重たくなり始めた荷物を肩にかけ、とぼとぼと歩いた。

 家に着いたのは、ずいぶん暗くなってからだった。頬は冷え切っていたし、胃も空腹でマヒしていたが、私は今日の冒険をホームステイ先のマダムとホームメイトの二人に話して聞かせた。そうすると、マダムは信じられないというふうな顔をしていった。

「あの道は、人が通るような道じゃないのよ」と。

さらに、

「ああいうところを歩いていたら、車に乗っている人に連れていかれたりすることもあるんだから」と。

 私が通った道は、どうやら本当に高速道路であったらしい。そして、車に連れ込まれれば、あきらかに犯罪に巻き込まれる。私がやったのはかなり危険な行為だったのだ。マダムはその話を自分の娘たちにも話し、大冒険だと笑っていた。私のフランス人の教師もそれを聞いてびっくり仰天といった様子であった。人間、知らないとは恐ろしいことである。

 フランスでいつも乗っていたバスは、実は時速100kmで走るような早いものだったのだ。そして、エクスの中心街から、ホームステイ先までは約20km。私は実に5時間かけて家にたどり着いたのであった。その時はいていた赤のスニーカーの底が擦り切れてしまったのは言うまでもない。

いやはや、我ながら馬鹿なことをしたなと思いつつ、心のなかでは何故か称賛したい気もしていた。私はフランスに来て、大旅行はしなかったけれど、小さな冒険はしたのだ、そう言い聞かせることができたからだろう。

 私は、あの頃、良く歩いていた。フランスの美しい田舎の風景を楽しみながら歩いていた。近くの小高い所にある村へ登っていき、そこにいたマリア像に祈ったこともある。無宗教ではあるけれど、この滞在が良いものへとなるように。そのころの私は酷く怯えていたからマリア様にでもすがりつきたかったのだ。

その願いはかなえられた。私は有意義な時間をそこで過ごし、また日本へ帰って来た。

 今歩く時、フランスの、あの広大な道での散歩が思い浮かんでくる。繰り返し。何度でも。

 

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Elle a fait revenir à la vie les fleurs.

 

 夜、母と散歩をしていた時のこと。いつも通る花屋の前で、『ご自由にお取りください』と書かれたピックの刺さった鉢植えつきの花が置いてあった。母はそれにすかさず近寄ると、持ち上げてから「チューリップか」とつぶやいた。

 母は、よく花屋で花を拾ってくる。花屋の前にある、もう商品とならなくなった花を貰ってくるのだ。「花屋が花を枯らすなんて」と母は憤っていた。彼女はきれいなものが好きだという。たくさんの花の咲いた庭、美しい調和とシャープさのある清潔な建物、音楽で言うならばジャズが好きなのだとか。以前、若い頃はその美しさを体現するものをして、服を選んでいたが、最近では体型の変化も加わり、服でその満足感を得ることはないらしい。

 美しいものを持ちたい、成りたい、目を楽しませたいという気持ちを常に持つということは、自らを引き立てる上で大切なことかもしれない。母が拾ったのはチューリップ。たまに道端に咲いている花を摘んでくることもある。しかし気まぐれに積んでは打ち捨てるのではなく、それを庭に植えかえたり、花瓶に飾って最後まで見届けようとしたりする。そうすることで、終わったと思われていた花は、また、甦ることができるのだ。

 今、拾われてきたチューリップは、リビングのテレビの横の大きな花瓶の中におさまっている。にょっきりと伸びた茎がぴんとのびて、深紅の花弁はバラのようだ。私にも、それが美しく見えた。

 




                            
Il exsite beaucoup de l’artistes tardifs sur toute la terre.

 

 九州日仏学館へ行ってきた。そこでは毎月一度、フランスの曲を紹介する授業があるのだ。私はそこで、15曲の新しい曲を手に入れてきた。担当のフランス人講師が曲とアーティストの解説をし、曲を聴きながらプロモーションビデオなどの映像を見る。

 今回久しぶりに行ってみたが、どのアーティストも知らない人ばかりで新しく知ることができた。紹介されたアーティストたちは、未だ大ブレイクはしていない人々だ。だが、彼らは決して若いわけではない。新人として華々しくデビューしたものの、その後、曲を出さなかったり別の演劇などの活動をしていたりしたために売れなかったという経験がある。つまり、扱いとしては新人に近いが、実力のほどはベテランということだ。

 彼らは、去年の終わりから今年にかけて曲を出したり、新たな賞を受けたりしている。そんな今年注目の新人アーティストたちを掘り出すような感覚で聞いていくのが、今回のテーマであった。

 フランスでは、30歳からアーティストとしてデビューする人は珍しくないらしい。今まで行っていた仕事を辞め歌手の道を選ぶ。今回紹介されたアーティストは、皆、シンガーソングライターでもあるそうだが、転職してその道に進んだという人が多かった。

 遅咲きのデビューで知られるのは日本ならば、スガシカオか。私は、彼の曲が好きだ。年齢は関係ないのだ、と思わせてくれる。村上春樹にしろ、あとからゆっくり生まれるアーティストもいるのだということが妙にうれしくなる。そして、年齢を理由にして逃げたり、諦めたりしてはいけないのだとも感じるのだ。

私の場合は、フランス語を学ぶということ、これを決して止めてはいけない、まだできると食いついていかなければならないと感じる。そして、フランス語を通した、物語の世界を深く知っていきたいのだ。年齢は関係ない。フランス語を話し理解することで、自分の中の世界を広げていきたい。それを、遅咲きのアーティストたちから学ぶ。

 

 


          Je lui ai maudit, et donc je suis maudite.


陰陽師などの用いる術の反動のこと、あるいは、外道な技の報いのことを逆凪、というらしい。


24日にふとつけて見たテレビで、呪いのことを話していた。神社の木に多く、ワラ人形が打ちつけてあるわけ。それは、日中多くの人の目にさらされる場所だからだと言っていた。多くの人の目にさらされ、呪われているのは誰なのかが、ワラ人形に記された名前などでわかる。それが、うわさとなり、巡り巡って本人の耳に入ってしまう。それが、呪いなのだそうだ。ある専門家によると、

「悪意あるインターネットの書き込みは『現代の呪い』」

なのだそうである。

その呪われた人と、呪った人のどちらともを救う神社というものが紹介されていたが、私の意識は、呪いの方へと傾いていった。

今日、食堂で友人と話をしていた。私は、演劇部への不満不平を漏らしていたのだ。そして、それを率いる人に対しても。それは、私の過失だ。本人のいないところで、文句や不満を長々しく話してはいけなかった。言いたいことは本人たちに伝えるべきなのだ。そうすれば、解ける誤解や、改善もみられただろう。しかし、私はそれをせず、軽い気持ちで友人とのおしゃべりのつもりで語ってしまった。

そして、今。ちょうど友人と話していた昼休みのすぐ後に、部活の後輩からのメールの着信が入っていた。メールには、「部活の後輩である自分が、同じその場にいた」、というものである。メールをみたのが夜遅かったこともあって、しばらく何故そんなことをわざわざ送って来たのかもわからず、声をかけてくれればよかったのにと、何の気なしに返信してしまった。

送信してから、私は、彼の意図に気がついたのである。彼は、私から呪いを受け、それを知った。ある意味、直接的な形で。それを私に返したのだ。彼は、冷笑的に、目に見えない意味合いを込めてこう云ったのだ。「自分は呪いをかけられたことを知っているし、その呪いをかけたのはお前だ」、と。

私は、かすかないきどおりを覚える。メールで言うくらいなら、その場で出てきて言って欲しかった。それができないのなら、より内省して欲しかった。私は愚痴や不満を漏らしたが、それは決して身勝手で的外れなことではないと考えている。部の存続にかかわる問題だから、話したのだ。語り口は大げさだったし誇張もされていただろう。ただ、本質的には、部活を行っている人たちが求めるのならば、語っても後悔はしない内容だった。

だからこそ、この反動が痛い。自らを棚上げして非難するわけにはいかない。だが、このような形で反応が返ってきたということが苦しい、と感じた。

これが、まさに呪い返しの一つなのではないだろうか。







          Le souvnir est presque toujours très beau.


ビールを飲んだ。酔うとやたらとフランスにいた僅かな時間を思い出すのは何故だろうか。

フランスでいた時に使っていた机、青く塗られた木でできている。その左側には電気スタンドがあり、右手側にはハイネーケンを置いて。ヌテラというバターとチョコレートとアーモンドを混ぜたような極上のクリームの空の容器を、コップがわりにして、中にビールを注ぐ。

そして、時間がうまく合えば、親とスカイプをして、日記を書く。ワインを飲んで気持ちよくなれば、パソコンで曲を流しながら軽く口ずさむ。そんな情景がじわじわと浮かび上がってくるような気がする。

思い出というのは、常に美しいものではない。しかし、たいていの場合においては、私の脳内で変換され美かれれるものなのだ。ビールにまつわる思い出はいくつもある。

果物のように甘いビールを飲みながら、友人の部屋でちいさrなギターのコンサートを開いて聞いたこと、昼間から授業の長い空き時間をもてあまして、噴水にもたれながらビールをのでしまったこと。友達の家で、皆でそれぞれの国の料理を作りながら、ビールで乾杯したこと。

どれも本当にわずかの間に起こったことだ。あっという間に過ぎ去ってしまった過去だ。でも、それが懐かしい。

今、私はフランスに滞在していた時ほど多くはビールを飲まない。フランスにいるときが異常だったのだと今なら自覚している。自由気ままな生活でアルコール摂取量が明らかに多かった。だが、今はそんなむちゃな飲み方をするほど、ストレスも悲しみも抱えてはいない。

今度フランスへ行く時は、またビールを多く飲むかもしれない。ただ、その時は、あの頃の思い出を持って、ゆっくりと過去を味わいつつ飲んでいきたい。
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