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Nous nous ressemblons.



恋愛談議。飲み会の席で、私の友人が周りの人に話していた。今の私からはかなり遠い話題だ。もともと、恋愛経験が皆無である。そのうちそのうち、と思っているうちに通りすぎてきてしまった感じだろうか。私の大学院での友人も同じようなものであるらしい。

彼女と私の共通点は多くあるように思う。
声、女子高に通っていたということ、恋愛に対する態度、生年月日。これらが似通っている。

声の部分は、疑問の残るところだが、他のところはおおむね納得できる。誕生日に至っては、私と一日違いだ。服装や髪形を二人の女の子同士が、合わせて仲良しをすることを「2娘1(ニコイチ)」というらしい。私と彼女は、見た目においてはほとんど似ていない。しかし、内面的な上で似通っている部分があるようだ。

さて、恋愛の部分だが、彼女との考えはぴたりと当てはまる。彼女は好きな人ができた場合、積極的なアピールはせずに、どちらかというと感づかれないようそっけない態度をとるというのだ。

ドンピシャリ。

全く私と同じだった。さりげなく好きであるとしても、面と向かって言うことはない。相手待ちである。さらに、おそらくは、付き合うことになるであろう人が、結婚相手と直結するだろうことも。

一人でバリバリ働くというよりは、家庭的な女性。かといって、まったく働きたくないわけではない。そして、決して恋人が欲しくないわけではないが、必要性を感じてはいない。そのくせ、将来的に一人になってしまうのは不安だと思っている。まるで、私が誰かに相談しているような気分になった。

相手のアドヴァイスも、「その態度は子どもすぎる」や「年上の方がいい」、また、「恋愛が好きなタイプよりも、家庭が好きなタイプを選ぶべきだ」など、どれも私が言われたことのあるものでもあった。

それを興味深く思う。

彼女と私は大学ですら全くもって話すことがなかった。社交的な彼女に対し、私は内向的だからだろうか。その私たちは、同じフランスに興味を持ち、今年フランスへ行くこととなった。


フランスで出会いがあるのか。「もう、私には恋愛なんて、恋人なんて無理だろう。」そう思う片隅で、「もしかしたら…」という淡い期待を抱いている。恐らくは、彼女も。

もしかしたら、今以上に、私と彼女の共通点を見つけられる一年となるかもしれない。

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Les gens flottent dans le monde.



「クローズアップ現代」で、現在ひきこもりが、若者たちだけの問題ではなくなってきていると言っていた。つまり、35歳か39歳までのひきこもりたちが、40%強を占めているというものだ。40歳以降は統計を取っていないが、やはり少なくはない数、いるのではないかという話だった。

彼らの引きこもりの引き金となったのは、「就職活動の失敗」と「職場での関係が作れなかったこと」が上位を占めていた。これは、登校拒否からひきこもりへ、という過程を経た子どもたちの問題とは異なったものである。

今日、フランス人の先生の授業を受けていた。今日が彼女の授業を受ける最後の日だった。その中で彼女は、「日本の若者たちは、何故あんなに子どもでいたがるのか」ということを聞かれた。フランスでは、若者たちははやく自立して、背伸びしてでもより大人に見られたがるのだそうである。

日本の若者が、子どもでいたいのは何故なのか。庇護されていたい、というのが一つ上げられる。また、私の個人的な感覚でいえば、「大人になる=一人で生きていく」というのが強いからではないだろうか。一人で生きていくことに強い不安を私は覚える。

もちろん、家族以外にも支えがあってこそ自立していけるものだとは思う。しかし、人間関係が希薄で、何が何でも働かなくてはいけないというような死活問題でない以上、自立というのはとても難しい。自分が死ぬかもしれないという深刻さが足りていないのだ。ひとまず、親が生きているうちは自分は何とかなる、といったような。

引きこもっている人たちの多くは家族に申し訳ないという気持ちを持っているとあった。だから、一概には言えないが、甘えを排除した精神的な自立とともに、空間的な自立も社会的に確立させなければならないと思う。

私もこのまま、大学院へ進んでいつかは就職するだろう。何らかの形で働き、自分が生きていけるだけのお金を稼がなければならない。私にはその将来的な見通しというものが、はっきりと見えていない。

メディアにおいても、大人になること、自立することのヴィジョンをもっと示してもいいのではないだろうか。そうでないと、「身近にいるようなちょっと可愛い子は誰だってアイドルになれる」、「若ければ若いほどいい」、そんな考えが広まってしまう。実際小学生たちの中には、20年後の私はAKBのメンバーに入っていると、疑いなく言う子もいるのだから。むしろ「子どもでいる方がいい」という情報を与え続けている。

ひきこもりは、漂う孤独な生き物だ。もはや子どもではない。それなのに、大人になりきれない。大人と子供のあいだを不安定にゆれている。ひきこもりだけではなく、多くの若い人たちにとっても、言える問題だ。フランスの若者たちのような姿は、日本の若者にはほとんどない。

フランスとは国も違うし、環境や気質も異なってくる。だが、私はこのまま、親に頼って、もたれながら生きていたくはないと思う。こどもではもうない。大人ではないかもしれない。はざまで、私は、漂っている。






Avril Lavigne est née au Canada.



アヴリル・ラヴィーンの曲を聴いていた。

「彼女のファーストネームのアヴリルというところは、”Avril”だから、フランス語では『4月』の意味だな」とぼんやり考えていたが、ふと検索してみてはっきりした。カナダのオンタリオ州生まれの彼女は、フランス系カナダ人の両親を持っているのだとか。

そして、ラヴィーンの方は”La vigne”と書く。ラヴィーニュか。なるほど。四月、とブドウ畑という意味のフランス語の名前だったのだ。彼女の名前にフランスの香りを見つけた気がして嬉しくなった。

曲を教えてもらったのは、高校の時。彼女は、はじめ私の一番の友人というわけではなかった。恐らく仲の良い友達と比べると二番目か三番目。私のなかではひそかにそう位置づけていたのだ。彼女は割とおとなしい、ほっそりとしたモデルのような人だったからこんなタイプの曲を好むのかと少し意外に思ったものだ。しかし高校三年間のあいだに部活をとおして話をすることも多くなり、二人でジェラートの店へ行って話しあったり、電話をかけ合ったりするようになった。今でも時々遊ぶ約束を取り付けている。

また、このアヴリルに少し似ているのではないかと思っていた友人が中学校の時いた。三人兄弟の長女で一人暮らしをしている、あの友人だ。彼女は悪いことにあこがれていたのだろうか、恰好も黒を基調としたようなパンク系のファッションを好んでいたのではないかと思う。
彼女も背は高い方ではなかったが、その見た目と声から男に間違われることもあった。一度、塾で別の学校の女の子から間違えて告白されそうになったと聞いたときは、笑いそうになったが。アヴリルのLet goのジャケットを見るたび、彼女に似ているなぁ、と思う。勿論これは個人的な感想だ。本人は驚くかもしれない。
彼女とは小学校の頃からの知り合いであったが、彼女をもっとも親しい友人と考えたことはなかった。中学になりその距離はずっと縮まることとなったのだが。彼女も元は二番目か三番目。私の中ではそんな位置だった。

昨日は、庵道という西新にある美味しい珈琲店へといった。禁煙が広まる中、この長く続く店では今でも煙草を吸うことを禁止してはいない。しかしその煙たさを少し我慢すれば美味しい珈琲とワッフルを食べることができる。
そこへ行った友人も、元々は一番仲のいい人ではなかった。大学四年間を共に過ごした、クラスでの友人、部活での友人は今は働いていたりで近くにはいない。今、私の傍にいるこの友人は、大学の頃同じキャンパスで過ごしたにもかかわらず、大学院に入るまではまともに話したこともないような人だった。それが、今は違う。

私のなかで一番と思った人たちとは、今も、変わらず付き合っている。しかし、その当時ニ番三番と位置付けた人たちも、私のなかで多く位置を占めているを言うことに気がつき始めた。

もともと順位付けなんていやしい、おこがましいと思われるかもしれない。しかし、ほとんど無意識で行われるこの順位付けで、私は人間関係を保っていることろがあるようだ。私は、ニ番だから三番だからと軽視しようというわけではない。むしろ、彼女たちをもっと、より深く知っていきたいのだ、と思い始めている。ないがしろにしてはいけない、ニ番、三番。

アヴリルの曲を聴いていたら、友人の順位へと意識が流れていった午前中だった。







La cigarette fait changer la vie.


『幼女と煙草』という 本を読んだ。ブノワ・デュトゥールトゥルというフランス人作家による最近の小説だ。原題はLa petite fille et la cigarette.

私は、本を読むのが好きだ。しかし、フランスの文学において、特に感銘を受けたという作品はそうなかった。だが、この話は割と好きであった。「女の子と煙草」でも良いところをわざわざ「幼女」としている。それだけでも興味をひかれてしまった。

内容は、煙草をまつわる男の話…。だろうか。死刑執行をする前に、煙草を吸う権利が認められているが、その刑務所では全館禁煙となっていた。この矛盾を上手くついて、一人の囚人が死刑を免れる。

その事件の起きていたのと同時期に、別の男が幼女への猥褻行為を行ったとして、起訴される。彼は物語の主な登場人物なのだが、全館禁煙となった市役所の役員で、こっそり煙草をトイレで吸っているのを女の子に見られてしまう。少女に何も言わないよう言葉で脅しをかけたのだが、女の子はそれを親に話してしまい話は重大なものへとなってしまう。

誤解された男の立場がどんどん悪くなっていくところに、いらいらさせられる。こんなイライラは、ハリーポッターの3巻、4巻を読んで以来だった。しかも、実はこのイライラが解消されることはない。幼女へのわいせつ罪で起訴された男は、あげくには、こども裁判のようなものにまでかけられてしまい、罪が確定する。しかし、収容されている時、彼は煙草の規則を巧妙について、死刑を免れた男のことを思い出す。彼は、人々の良心に訴えかけることで窮地を逃れることを考える。

中東で人質に取られていた人々の一人を救おうとしたのだ。彼は、交換で人質になることに名乗りをあげ、実際交代する。そして、他の人質を気遣い、他の人を殺すくらいなら自分を殺せと超然とした態度で、世界各国や、犯行グループに語りかけるのだ。結果人々は納得し、彼の殺害を容認するが、その段になって、今までの仮面を取り去って、男はパニックを起こすが、そのまま首を切り取られて死んでしまう。


…長い、内容となってしまった。特に面白いところをさらに少し。フランスの、アーティストをアマチュアから養成し、オーディション形式で勝ち上がっていく有名な番組、スターアカデミーをもじったようなものが出てくるのだ。中東で人質にとられた人々は、みなが歌を歌ってそれをインターネット上に流し、それを観た世界の人々の投票で、最下位だった人が殺害されるということに参加させられている。風刺的なこの殺人ゲームに、なるほど、と思ってしまった。

疑いをかけられた男は、最後まで、幼女にいたずらした恥ずべき男とみなされ、恋人も去り、最初の死刑囚のようにうまく人々の同情も得られないまま、悲惨な最期を迎えてしまう。

とても描写は日常的で、どこかにありそうだという印象を受ける。殺された男が働いていた街や市長などがそうだ。空気清浄月間を行うために、逆にその周りの二酸化炭素濃度が上がってしまうような矛盾した政策などもありそうな感じがする。

男の飼っていた犬の名が、サルコという、サルコジ大統領の愛称が使われていたりとディテールに凝っていると解説にあり、面白く思った。

物語の初めの方で、男は幸せな生活を恋人と送っている。その時感じていることが、あとあと妙に私の心に響いてきた。


『エピクロス曰く、喜びのために生きるべし――加えて、少しの太陽と一杯の水以上に喜びをもたらすものはないと彼は言っている。三年来、ふたりの共同生活の礎となっているのは、この信条だった。』

と。日常はひょんなところから崩れ去っていくのだ。しかも、人が人を裁く時、それは大勢の人のその場限りの感情が左右することもある。

煙草を巡る物語。この本を読み終える前に、友人と珈琲店へ行っていた。そこでの煙草の匂いが、まだ服に染みついている。






D'abord, on commence écrire le français dans l'agenda
et écouter la radio française.


今朝から、フランス語のラジオを聴き始めた。なんてことはない、「ラジオフランス語講座」の中の「まいにちフランス語」というやつだ。以前は20分だったが、今では15分に短縮されている。高校のころ子のラジオ講座をよく聞いていた。朝、これを聞いてから学校に行くと間に合わなくなるので、MDに録音しておいて、帰ってきてからこまめに聞くようにしていた。なんとも太古のような昔の気がしてくる。

それから、大学に入ってしばらくは続けていたが、朝早く起きるのもおっくうになり、フランスの留学から帰ってきてからしばらくは、フランス語で頭の中が飽和した状態になっていて、フランスの音が聴きたくなくなり、まったく手をつけていない状態だった。

それが、今、大学院に行くようになってからようやく復活してきた。授業で出される課題は、フランス語の文章のようやく出会ったり、フランス語で作るレジュメであったりする。また、文学作品を選考とするうえでもフランス語を読まなければ、まず駄目だろう。

今年の秋にはフランス行きも決まっている。私はこれからゆっくりとでもフランス語に身を浸さなければならないと考えているのだ。

ラジオを聴くことと同時に、手帳へのメモも日本語ではなくフランス語でおこなうように実践し始めた。頭をフランス語脳にうまく切り替えるためだ。もちろんフランスにいるころは、聞こえた単語をそのままメモする感じだったので、なりゆきとして、手帳はフランス語で書かれていたが、日本に帰り、どっぷり日本文化につかってからは、そんなメモもしなくなってしまった。

手帳はcarnet、あるいはagenda。どちらも男性名詞だ。フランス語で考える時間を一日にわずかでもいいから持っていくようにしたい。それが現地での予行練習となる。

まずは、手帳とラジオから。ここからはじめてみたいとおもう。

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