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L'homme n'est que poussière.
一日中家にいた。今日は学校がセンター入試の準備で、全学休校となっていたのだ。
遅く起きた朝、私は言いようのない眠気を持てあましながら、気分転換にと掃除をした。部屋の掃除をしていると、一週間分のほこりが一挙に掃除機の中へと吸い込まれていった。吸い込まれていく綿ぼこりたちを見ながら、私は思った。
私も、この塵芥ほどの存在でしかないのだ、と。
この発見自体は別段、新しいことではない。しかし、改めてそれを自らの問題として認識すると、何か焦りのようなものがわき起こってくるのである。
自分はほこり程度の存在なのだ、と考える。それを想う時、私は人間はいつか死ぬのだ、という命題にぶち当たったのと同じ感覚を覚えてしまう。自分がほこり程度の存在と認識した時、そこに生じる感情は絶望だろうか、それとも希望だろうか?
どちらも考えられるだろう。絶望と感じた時は、世界を斜に構えてみるか、諦観をもって眺めるだろう。いてもいなくても変わらないような、いつ消滅かもしれない存在ならば、何をどうしても仕方がないと。怠惰で投げやりになる。あるいは、なんでも享楽的に、破壊的に「一度きりの人生」を試してみたくなるかもしれない。その刹那的な喜びに浸るためだけに生きるのだ。
逆に希望として見るならどうか。その小さな存在、短い生命を生きる存在としての「私」が、悔いのない人生を送るために、行動をするだろう。そして、今までためらってできなかったことを、前に進むために行うだろう。
感情は、そのときどきの状況によって変化する。それこそほこりのように、ふわふわと、また、刻一刻と変化する。ひどく疲れているならば、私は無力に陥ってしまうかもしれない。だが、今日掃除をした後、窓を開けて冷気を部屋に招き入れると、その冷たい空気が、私の頭に浸み渡るような気がした。
私は、まだ希望の方で生きていけるようだ。
ほこりの私は、冷たい空気の中にいる。
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