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Il reste toujour là.
パソコンを使うのは、久しぶりだ。学校のパソコン室を使っている。なぜだか、気分が少し悪い。
昼に食べた、肉まんがいけなかったか、朝賞味期限を二日過ぎた牛乳を飲んだのがいけなかったか。あるいは、コーヒーで追い打ちをかけてしまったのかもしれない。最も納得がいくのは、前日の夜のビールの影響だろうか。そうはいっても、缶ビール一本しか飲んでいないのだが。めっきり弱くなってしまった。
ところで、私は今日何らかの考えを書こうと思っていたのが出、急にいつもこのパソコンルームに来る際に見かける初老の男について書きたくなった。
彼は、いつも、ここにいる。
気がついたときからずっと。彼は、よくこの部屋を退出するのだが、やっぱり帰ってきている。一度私がここで、3時間ほど時間を使っていた時も、入退出を繰り返しつつやはり、そこにいた。パソコンのある3つの長机のうち、一番後ろの席。咳ばらいが大きく、独り言も言う。
外へ出れば、たばこを吸うのか、帰ってきたら、たばこの匂いが、部屋に広がる。ラーメンを食べてきた後なども、すごかった。きっと餃子も一緒に食べてきたのだろうと想像する。
個人的にはとても迷惑な気がしていたが、彼から嫌がらせをされたわけでもなければ、話したことすらない。
彼は、ただ、そこにいるのである。
パソコン室の主のように。
ほぼ毎日のようにパソコン室を訪れて、いったい彼は何をしているのだろうか。
彼は今も私の後ろにいる。
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Je me souvienne le Belle au bois dormant.
怒り、という感情について。
私は、よく怒ると思う。なぜか。理不尽と感じる点が多いからである。しかし、その理不尽さはどうしようのないものなのかもしれない。それが不当なものなのかそうでないのか、判断する材料を今のところ手に入れていないからである。
部活の話。卒業のための後輩部員達からの、追い出しパーティーが行われるらしい。パーティー。結構なことだ。それは、現4年生の人たちの送別会であるのと同時に、留年して居残っていた私の学年の友人を送る会でもある。
しかし、私には、その卒コンの知らせが来ていない。ほかの友人4人は、そのことを知っているようであった。おかしい、と感じる。
以前、公演がある時も、卒業生に送られるはずのダイレクトメールが、送られてこなかった。その時は、私以外にも2人ほど、手違いで送られてこなかったという話だった。だが、今回は、送られていない友達も早々に来ている…らしい。送られてきた、メールで判断した。なんとなく、聞きたくはなかった。そのうち送られてくるだろうと。しかし、なんともいやな 気分である。
送られてこないからではなく、送ってこない相手を憎悪する気持がである。
こんなもやもや、本人に確かめればいいのだ。
だが、ダイレクトメールのときは、無視された。ほかの部員から謝罪されたものの、当日言ってみると知らされていなかったようだ。
書いているだけで、苛立ちが募ってくるような気がする。
日取りを送ってこなかった相手とは、先日食堂でもあった。その時は、まだみなに日付を送っていることを知らなかったが。
私は、眠れる森の美女に出てくる、魔女なのだろうか。王女の誕生を祝う時、一人だけ呼ばれなかった、年老いた魔女は、王女を不幸に陥れるため、糸車のつむで刺され死んでしまう呪いをかける。
私も、呼ばれていない魔女なのか。
年老いた魔女の気持ちが、なんとなくわかる気がする。
J'ai fini de lire le roman japonais.
『空色勾玉』を読んだ。読書づいている今日この頃である。
何かが読みたくてたまらない。そんな時期になっているようだ。『空色勾玉』は荻原規子さんの作品。日本のこじきを舞台にしたファンタジーだ。…こう書くと、なんだか正確さを欠くような気がする。それというのも、ファンタジーというと子どもっぽさが前面に出てしまって、まずある程度成長した人たちの読むのをためらわせてしまう気がするからだ。
しかし、私が彼女の作品を知ったのは、児童文学でである『樹上のゆりかご』という作品を図書館で借りてきて、読んだところとても面白かった。学校が舞台の物語。パンに入ったガラスのかけらや、花火大会や…。サロメを演じる少女の妖艶さなども好きだった。これが、児童文学なのか、と。そのジャンルから大きく抜け出した、もっと多くの人に読んでもらえたらと思うような作品だったのだ。
私は小学校のころ児童文学ウィ男読むのが大好きで、図書館で借りてきては、読みまくっていた。だから、児童文学には掘り出し物が多いという認識がある。『遠足こわいぞ、あぶないぞ』しかり。児童文学というジャンルに押し込められているが故に、多く読まれていない良質の作品は多くあるのではないかと思う。
私は、『ナルニア国物語』を読んだとき、自分には遅すぎた、と感じだ。どうしてもその幼い感じに共感を持つことが出来なかった。これを小学生のころに読んでいたならば、好きになっただろうに途残念に思った。
本と人とでは、出会いがある。相性もあり。その時分からなくても、読み返せば、ものすごく納得したり、新しい発見をしたりする事もある。
空色勾玉も主人公の「さや」という少女と月代王のやりとりに、一人でわやわやいいながら読んでしまった。想像力を膨らませ、読書するのはものすごく楽しい。その時間は、絶対に私だけのものだからだ。
また、何か本を読みたい。
Mon bras est tombe.
唐突に大学での部活の先輩が言っていたことを思い出した。
「眠ってはいけない状況の時、どうしても眠くなってしまったら、仰向けに横になった状態で、片手を上に上げて、寝ればいい。」
そういっていた。どうしてもあらがいがたい眠気に襲われたのであれば、片腕を上げた状態で眠れ。そうすれば、まどろむときに、自然と腕の力が抜け、手が落ちてくる。その衝撃に驚いて目を覚ますから、と。雪山での遭難でもあるまいし、眠ってはいけない状況というのを作り出す、差し迫ったシチュエーションが日常的にあるようには思えない。
そうまでして目を覚ますくらいなら、眠ってしまえばいいのに。
聞いたときもそう感じたが、今日ベッドの上で、半分まどろんだ状態になってから、急にその話を思い出すと、妙に笑いがこみ上げてきて眠れなくなった。
結局その先輩の話にはめられてしまったようなものだ。
私は、落ちてくる腕に笑いながら、目を覚ました。
Vous savez " Le Grand Chaier" ?
悪童日記を読んでいる。この物語は、戦争中の疎開先で双子の男の子が様々なことを目にしながら生活していく話らしい。そこには、かなり露骨なものや描写、表現がたびたび登場する。しかし、それを見る目は冷静である。あるいは、努めて冷静であるように描かれている気がする。
もともと作者はハンガリーの女性で、フランス人ではないのだとか。しかし、分かりやすい短い文章で、いくつもの章から成り立っている。友人のMKはこれをフランス語で読んでみたらしい。自らの研究テーマとして扱いたかったらしいのだが、あまりに簡単なフランス語の言い回しなので、お勧めできないと教授に言われたらしい。
作者、アゴタ・クリストフは、フランス人ではない。しかし、フランス語で物語が書けるまでに、習得している。見習いたいばかりである 。今読んでいる途中の、村上春樹の『遠い太鼓』というエッセイでも彼は妻から「異邦人を読めるだけの能力は持っているのに・・・」というようなことを言われている。人とと会話したりは出来ないが、原書で読めるくらいの能力はあると。これもすごいことだ。私はヴィクトル・ユゴーの作品を原書で読もうとしているが、なかなか進まない。
過去に、(ごく近い過去、あるいは現在に)フランス語を学び、聞いて読んで書いて、習得している人が居る。私も彼らに少しでも追いつきたいと思う。