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On peut goûter le manuel scolaire.


フランス語の教育について教える授業を受けてきた。

フランス人の教授が担当している授業だ。彼女によると、教師と生徒は対等な立場ではないらしい。両者は、アシンメトリックな関係であると。アプローチの仕方によって生徒との対話型、グループ型と対処していかなければならないが、確かにそうだ。

生徒と教師は対等ではない。アシンメトリックな関係という言葉に妙に納得するものがあった。

またフランスでは、教科書の作成がある程度制限されているらしい。誰でもが、気軽に出版できるものではないのだ。それ相応の専門家と審査の結果、厳選されたものだけが本として出てくる。

日本にも、教科書や、テキスト類は無数にあるが、その中から良質のものを選び取るのは難しい。生徒に合った、教師にも適応する、教材として適当なもの。あるいは、独学で学んだり復習したりすることにおいても重要な選択だ。私もフランスの問題集などを買うとき、はずれを選んでしまったと思うことがある。一読しただけではなく、その問題の難易度などもじっくり見ていかなければならない。

いわば、教科書のテイスティングだ。見た目、色、香りの代わりに、難易度、内容の面白さ、分量などをみたりする。

これから長く付き合っていくことになるだろうフランス語において、教科書のテイスティングは上手くできるようになっておきたい。




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Les gens doivent avoir le coeur de la fantôme d'opéra.


芝居は、人を偽るのか?マスクは、人を変えるのか?

変身願望について。今朝の朝日新聞で、中高生の間で「だてマスク」なるものが流行っているという記事を読んだ。自らの顔貌に自信がない、付けることで安心し、また集中できるなどの意見が載っていた。

私はこの記事を読み終わってすぐ、猛烈な苛立ちに襲われた。なんて消極的な。記事にさらに書かれていたが、プリクラを撮る時に、口の部分を塗りつぶすことで目元を際立たせようとすることも流行なのだとか。

自分に自信がないから隠すのか。何故自信を持てないのだろうと思ってしまう。確かに最近は、「根拠のない自信を持つ人」と「過度に自信がない人」との二極化が進んでいるように思われる。私はどちらかというと後者なのだが、それでも自分の顔くらいは堂々と見せてもいいのではないかと思う。特別醜いわけでも美しいわけでもない。美醜なんてその時代でだって変わる。顔の造詣が自信につながるというのが解せないのだ。

そんな矢先、後輩から、芝居を手伝ってくれないかとオファーが来た。一番下の学年の子たちが急に一気に辞めてしまったらしい。私は、てっきり役者の人数が足りないので役者をやってくれという話かと思った。

しかし、話を聞いてみると役者は自分たちがやる、それ以外のことで細々したことを手伝ってくれないかという話だった。要するに裏方、および雑務だ。なんとも失礼な話である。芝居の顔は勿論役者だ。しかし、華々しい部分は自分たちがやって、残りの煩雑なところ、役者にかまけてばかりいたせいでわからないところは学びもせずに押しつけるとは。少し、残念に思う。

さて、何故いきなり芝居の話を挿入したかというと、役を演じる、ということは、今の自分でない誰かに変身するという意味があると思ったからだ。ひと時でも変身したい、変わりたいと思うのならば、芝居をしてみたらいいと思う。今までの自分でない方向に全力で力を注ぐことができる。それは本当に貴重な体験だ。

マスクなんて、そんなもので内面を覆ってしまうより、外側から殻を破って別の自分をさらけ出してみたらいい。

マスク、仮面というとガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』を思い出す。彼はコーラスガールだった、クリスティーヌ・ダーエに純粋な愛を捧げる。醜い顔をした、美しい心の化け物。その悲喜劇性が人の心をいつでも捕らえるのだろうか。怪人だけでなく、『ノートルダム・ド・パリ』のカジモドもそうだ。

怪人はその醜い顔をさらしたが、クリスティーヌは彼に同情、共感を持ってキスをする。それは、恋人に持つような愛情ではなかったけれど。それでも怪人を醜いだけの化け物とはもう思わなかったのだろうと思う。

たとえ、自信のない顔であっても、それを好んでくれる人はいるかもしれない。私たちは、それぞれの顔に、怪人の心を持てばいい。





Elle parle comme d'habitude.


つながる、とはどういうことか。

友人と電話をした。私が、彼女と電話をしたのは久しぶりだった。同じ大学に通っていって、部活をやっている頃は、ほとんど毎日のように顔を突き合わせていた仲だ。

部活に入って、直感的に、この人とは仲良くなれると感じた人でもある。

しかし、私が大学院、彼女は大学に居残りをしている現在、逢う機会はめっきり減ってしまった。疎遠になったのとは違う。ただ空間的な距離が、精神的な面に与える距離というのも確かにあると感じた。

私は、しばらく会わないうちに彼女を忘れていたのだ。

彼女の、話し方、笑い方、言葉を発する時のタイミング、相づち、そのような細かな点が空中で飛散するように、忘れてしまっていた。

取り戻そうと思えば、電話のコールを押すだけでつながる。しかし、押さなければ逢えないのだ。気持ちを通じ合わせることもできない。その人が、何を感じ、どのような調子で感情を持っているのかを把握することができない。



ひどく、切ない気がした。



私は、彼女を誤解していた。

彼女を羨んでいたのかもしれない。そして、些細な気持ちのすれ違いを起こしていた。逢えば、話せば取り戻せる距離だ。昔では考えられなかったほどの容易な方法で。降ってきた牡丹雪が、重なり合って溶けるように容易く。私が最近連絡を取っていないは友人は他にもいる。これから、少しずつ、雪と雪とを重ね溶かしていきたい。溶けて、ゆきたい。






Le film progresse de temps en temps.


映画『アンストッパブル』を観てきた。

一緒に行ったのは、高校の時の友人二人だ。二人とも働いているので会うのはほぼ半年ぶりといったところだろうか。懐かしかった。観た映画は、実話をもとにしたという、『アンストッパブル』というもの。

私のステレオタイプな認識で、「アメリカ物は、最後に正義は勝つといったようなチープなもの」だろうと思っていたが、なかなかに面白かった。映画自体を観るのも久しぶりだったのでなおさら新鮮に感じられたのかもしれない。

大量の毒物を積んだ、無人の貨物列車が、暴走する。それを食い止めようとする若い車掌と、ベテラン機関士の話。列車の激しい走行音と、スピード感のある映像、テレビ局や避難する人々の映像などが緊迫感を伝えていた。私が気になったシーンは二つある。

一つ目は、最初に列車を止めようとした、ステュアート。責任者の指示に従い、彼も暴走する列車の前に列車を走らせ、接合させて食い止めようとする。彼もベテランであった。前から列車をくっつけるのは、その後の暴走列車の後ろから追いつき、接合する部分の前座のような話になっていた。ゆえに、勿論前から列車をぶつける作戦は失敗する。そして、失敗の結果死者が出てしまうのだ。この映画での唯一の死者は、ステュアートであった。

懸命な作業にも関わらず止まらない列車。たまらず、同じ路線から離れるが、ステュアートの列車は脱線し横転する。はっきりとした彼の死は描かれていなかったが、横転し炎上する列車を観れば、結果は明らかだった。彼にも家族がいただろう。ただ一人彼の死を悼んだ人物として描かれていたのが、もう一人のベテラン機関士、フランクだった。私は、彼の死が妙に強く印象に残った。たった一人、暴走列車と戦い死んでいった人。話の大筋ではほんの少ししか描かれてはいないが、彼の死はささやかなものではなかったように思う。

もう一つ印象に残ったシーン。それは、機関士フランクが二人の娘たちに電話をかけるところだ。18歳の妹と19歳の姉。姉の誕生日が事故の起こったまさにその日であった。あやうく暴走列車とフランクたちの乗る列車がぶつかるか、という直前、フランクは姉の方に電話を入れる。事態を知らない姉は、誕生日に真っ先に電話をくれなかった父親に不満を示しているが、フランクは余計な事は何一つ言わず、ただ「愛している」といっていた。その一言の重みで、私は酷く切なくなってしまった。

何も知らない肉親、自分がどのような危機的状況かも伝えず、ただ大切なことだけを言う。そこに胸が締めつけられるような感覚を覚えた。

映画は良く見る方ではない。年に2本、見るか見ないか。DVDでもそう見ない。だが、たまに見るととても興味深い。私は必要以上に感情移入してしまう部分があるので何とも言えないが、この作品は割と好きな方であった。

映画自体の質も、映画館そのものの変化していく。その流れは止まらない。以前だったら3Dなんて存在しなかったし上映作品も限られていた。映画をこんなに自由に見て回れるこの時代、もう少し映画を観るようにしても良いかもしれないと思った。




Le théâtre est aimé par presque tout le monde.


川上音二郎。彼の生涯を描いた演劇がテレビであっていた。

川上音二郎は西洋式の劇場を日本に初めて作った人物として名高い。彼の妻、貞奴子もともに有名だ。今日見た芝居の中で時に気になったのはこのセリフ。

「駄目と言われて、燃えてくるのがこの音二郎だ!」

とのこと。民権運動の演説を行い、規制されたことから、芸人になった音二郎。その落語家として語る自由民権運動も抑圧されたことから、彼は歌舞伎ではない、新しい芝居をすることとなる。19歳の音二郎の熱演が良かった。

また、音二郎は

「我々には志がある、そして何より庶民を想う心がある!」

といっていたのが、気に入った。時代を変えるうねりの中で、そのような真剣な気持ちを語ることができるのが、私には少し、羨ましい。

貞奴は初代総理大臣、伊藤博文が後ろ盾となった、芸者。彼女と音二郎との仲をもっと見たいと思ったが、内容は音二郎の人生だったので、そう貞奴の活躍というものは描かれていなかった。

演出はギンギラ太陽’sの大塚ムネト。脚本は長谷川法世だとか。興味深かったので前半の2時間半はテレビの前で見ていたが、後半は諦めてしまった。

ただ、それを残念とは思わない。私はこの芝居を見ることで、音二郎の言葉を手に入れた。勤皇の志士や、幕末の時代など、なにか大きな時代の動きがある時に活躍する人々は魅力的だ。彼らの声というものに、つい私は感情移入してしまう。

そうやってあこがれる気持ちはあるけれど、その上で今があるのということも忘れないでいたい。平穏な世の中は、その下に多くに人々の犠牲があるのだということを、忘れてはいけない。

この芝居で伝えたかったことは、全く別のことであるかもしれない。ただ、私が感じたことは、芝居をすかしてみた、その向こう側にある感情のようなものは、犠牲の上に成り立った、今の幸せではないかと。そう思ったのだ。たとえそれが私の誤りであっても良い。芝居をとおして、何かを得たような気になれるのが大切なのだ。



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