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               J'ai mis le gâteau au chocolat dans le frigo.



バレンタインデーだ。

ベタにチョコレートのお菓子を作った。あげるあてはない。さしずめ家族当てだろうか。母は、三線教室の方に配ってはどうかといっていた。それも悪くない。

一応、ガトーショコラのつもりで作ってみた。本来、菓子作りなどやる性分ではないせいで、多少奇妙なことになったが、気にしないでおくつもりだ。冷蔵庫の中で眠らせている。

母も、小学校で児童たちから、いくつかチョコレートをもらってきていた。今、そのチョコレートの一つを食べている。児童たちの作るほとんどが、手作りのようだ。甘さが口の中にじんわり広がっていく。甘い。でも、その程よい甘さが美味しい。

母の教え子たちは、6年生。「12歳の内からチョコレートを作りこれからの人生で作り続けて行くのかと思うと…」、と何故かやりきれない思いを抱いているようであった。彼女たちは、こうやって愛している人でもない人に作り続けるのか、と。

昨今日本のバレンタインデーは、親しい人、お世話になっている人にチョコレートを渡す日になっている。日本にいるフランス人の知り合いは、恋人同士の日の方が良いと嘆いていた。

チョコレート。甘くて魅力的な食べ物だ。かくいう私も小学校6年生で初めて、バレンタインデーに手作りチョコレートを友達と作った。

当時の私たちの学年は、割とませていて、好きな男子にチョコを贈っていたのだ。ただ、見返りは一切なくてOK.渡して、思いが伝われば、付き合ったりそれ以上の発展を望むことはなかった。なぜ、はっきりそう言い切れるかというと、その時の映像が残っているからだ。

あるテレビ番組で、見事、友達二人と一緒に取材されてしまい、インタビューに答えたことがある。渡すだけで満足と発言したのは私ではないが、それでもその気持ちに同調はできる。チョコレートは、それ以来23歳の今まで、一度も作ったことはない。それはそれで、何か感慨深いものもある。

ふと、思い立って作ってみたチョコレートケーキ。美味しく仕上がっていることを望んでいる。





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On a mangé les petits gâteaux.



姉が、以前アメリカで買ってきたカップケーキを作った。


甘かった。


もう、日本にはないだろうと断言できるような甘さだった。

甘い。とても、甘い。何がこのような味に仕上げるのだろうか。濃いコーヒーとともに食べるのが好ましい。
胃の奥まで甘い感じが残った。

ところで、先ほど、「悍ましい」という言葉の読みを知った。おぞましい。
姉の作ったカップケーキは悍ましいと形容するほどの、ぞっとするような厭わしさはなかった。

そもそも、食べ物には形容できないものなのかもしれない。

アメリカで姉の友人がハロウィンの頃プレゼントしてくれたものだったらしい。
紙に描かれたカボチャの絵が先に付いたスティックをプスプスと生地にさしてあった。
季節外れ感もあるが、まぁ悪くはない。

アメリカに姉は行く。6年。下手すれば一生。彼女に思うところは多くある。腹がたって、憎くて憎くてたまらないことがある。楽しくて、彼女と血がつながっているのを嬉しく思うこともある。あまりの身勝手さにあきれることがある。しかし、私が一番苦しかった時、救ってくれたのは彼女だった。だから私は、姉のことを本気では嫌いになれないだろうことを知っている。彼女は、文字通りフランスまで、私のために飛んできてくれた。


フランスに行っている間に、私も姉のところへ行ってみたいと思う。それは、おそらく観光などの形で。そこで、今日食べたカップケーキ以外のアメリカの味も味わってみたいと思う。







J'ai vu les tableaux de Van Gogh.



茶道に行った後、姉といっしょに大宰府であっているゴッホ展に行ってきた。大宰府の九州国立博物館でゴッホ展行われていた。今日見てきたものは、どれもフィンセント・ファン・ゴッホの美術館から持ってきた作品群であったらしい。ゴッホ以外のゴッホ美術館に収納されている作品も見ることができた。シスレー、ミレークールベなどを。

ゴッホ展は明日までで終わりだ。茶道の教室にいるときにお弟子さんと先生が話しているのを聞いて、姉と即決してすぐに出かけた。

今日は冬に逆戻りしたような寒い日で、大宰府では雪がわさわさと降り積もっていった。しかし、ゴッホの作品を見に行くことができて良かったと思う。彼の代表的な作品「ひまわり」、「夜のカフェテラス」、「糸杉」などは見られなかったが、「アルルの寝室」や「自画像」をみることができた。

私が好きな絵は「アルルの寝室」だ。私がフランスにいた頃に、この絵を使ったポスターが、寮に貼ってあったので印象に残っている。ポスターはこの絵の上に「寮の食堂を利用しなさい」といったような言葉が書かれていたと思う。また、この絵の部屋が、寮の部屋に割と似ていたので面白く思ったものだった。

今日、その絵の本物を見てきたわけだ。この絵は、他にも同じような絵が2枚あるらしい。今日見た原画は、痛みがあったため、ゴッホ自身が手直ししようとした。しかし、もとの絵の出来を壊すかもしれないと恐れた弟のテオが、複製を作ることを勧めたらしい。それにしても面白い絵だ。そう思うと同時に私もこんなふうな絵が描いてみたい気がしてくる。

彼の作品の中でも明るい色合いの絵が好きだ。農民を描いた渋いタッチの絵や、コンテを使ったものも味わいがあるが、私は弾けんばかりの明るさのある絵の方が好ましく思った。

私は細かい絵を描くときは、たいてい今の状況にストレスを感じている。何らかのフラストレーションがたまることによって無性に絵が描きたくなるのだ。ゴッホも絵を描くことで何かの、うっ憤晴らしのようなことをしていたのかもしれない。ただ、私の場合は、絵ばかりをずっと描いていると、それもまた窮屈になってしまい、全く描かない時期というものも出てくる。

彼も生涯色々な仕事をしたようであるが、生真面目そうな印象を受ける。弟のテオの助けがあって、生活していたというゴッホ。いろいろな葛藤が作品に影響を与えたのだろうか。

フランスで、寮にいた時私は多く絵を描いていた。そうすることで目の前の厭なこと苦しいことから逃れようと、せめていっときでも気晴らしがしたいと思っていた。ゴッホの絵によく似た寮の一室で、本当に死ぬことを意識していた。今では、それが遠い夢の話のような気がしてくる。

私も絵が描いてみたい。だが、死ぬときだけは、自らの手で幕を引きたくないと思う。








J'ai oublié d'écouter la radio français.




不覚にも、ラジオフランス語講座を聞き逃してしまった。

昨日寝るのが多少遅かったせいだろうか。しかも、午後にあった再放送も、放送される10分前までは覚えていたのに、その後すっかり忘れて結局聞くことができなかった。

ラジオを一度聞き逃したからといって、何が変わるわけでもない。しかし、一日に一度くらいはフランス語に触れておきたいと思うのである。

そうでもしないと、私はフランス語の能力が絶対的に足りない。今年の内にはフランスに行くのにこれでは不安である。

高校生の頃からフランス語を始めた。もう、初心者ではない。それでいて、フランス語の本を読むのは膨大な時間が必要とされるし、会話もままならない。集中力が足りないことも挙げられる。

しかし、いつか、フランスの面白い本を見つけ出して、日本語に訳してみるのが私の夢である。

面白い本、たとえば、村上春樹のような本を。フランス語版でいつか見つけてみたいのである。








"Shiki" est mon livre favori.



指先が冷たい。もうだいぶ日中は、暖かくはなって来たけれど、それでも夜は冷えてくる。

昨日給油したばかりのヒーターをつけてみる。ヒーターの音を聞くだけで、体が温まっていく気がする。後で、ホットミルクでも入れて来ようか。

最近パソコンの調子が良くない。真っ暗な画面が出てくる。放電したりしばらく使わなかったりするのだが、どうにも良くない。これが海外に持っていった時に、続くようならどうしようか、と心配してしまう。

このパソコンは、私が大学2年の時に買ったものだ。今年で4年目。変えどきなのだろうか。私の初代パソコン。それ以前は、家族と兼用のデスクトップをもっていた。

今日は、私の好きな小説の話をしてみよう。小野不由美の小説『屍鬼』だ。この小説にはまったのは2007年だっただろうか。人間と屍鬼となった人々の葛藤やそれぞれの考えが詳しく描写していて感情移入できる。その立場の反転に強く興味を持ち、大学の時のゼミ論で発表したこともある。

最近では藤崎竜の漫画で『屍鬼』が出ている。原作はもちろん小野不由美の小説だ。今日、マンガの10巻を買って来た。次が最終巻なのだとある。結末は知っている。しかし何か惹かれるものがある。活字とは違う、絵の形でどうなるのかがとても気になる。

人が絶対な正義ではない。作品を読んでいてそれを強く感じる。人とは異質のものに変化しても、感情や記憶は残る。人を殺す生き物になった時点でどうすればいいのだろうか。もし自分が屍鬼だったら、逆に家族が屍鬼になって襲ってきたら。それを考えると苦しくなる。私は、自分が生きるために、人を殺すか。殺すかもしれない。逆に、屍鬼として襲われたら抵抗するだろうか。イエス。それを考えると、自分がとてもエゴイストな存在だとわかる。綺麗事を言っていても生の渇望の前では消え去ってしまうだろう。


人間の想像力というものは恐ろしいと思う。こんな残酷な想像をして、私は何をしているのだろうか。家
族を殺す?家族に殺される?私は小説の内容にシンクロしてしまう癖がある。気をつけなければ、物語の世界と現実を同等に考えそうになってしまうのである。もちろん、今書いている時点で私は正気だ。ただ、本当に些細な瞬間忘れている気がするのである。

それでも、興味深い小説を見つけるのは好きだ。こうやって色々と考えを膨らませることのできる小説に会えるとものすごく幸せな気分になる。未だ、フランスの小説でそのようなものを見つけたことはない。いつか、自分をその物語の世界へ引きずり込むような、そんな夢中にさせられる本と見つけてみたい。



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