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Je ne suis pas potiche.




MKともう一人の知り合いと共に映画を見てきた。見たのは『幸せの雨傘』。『シェルブールの雨傘』もてがけてた、フランソワーズ・オゾンの作品であるらしい。MKが彼の作品がとても好きだというので、観に行ってみた。

フランス映画に対する、先入観(展開が遅い、恋人同士の絡みが多い、たいくつ)を、割と覆すものだった。夫の心臓麻痺によって、社長婦人から女社長へと変貌する主人公。歌も好きでお洒落でユーモアもある。なかなか、好きなほうであった。

しかし、私は内容よりも彼女がからかわれ、彼女自身も否定していた『飾り壷』というのが気にかかった。

「お母さんは飾り壷なのよ」と、言う娘。
「あなただって、私を飾り壷って言ってたでしょう」と、娘を叱る主人公。
「飾り壷だよ。だが、中身のある飾り壷だ」と、力なく言う主人公の夫。彼は、彼女が社長としての腕を見せ、さらには議員として立候補し、当選するのを見ているのである。

彼女は『飾り壷』といわれていたが、そうではなかった。たくましい女性の姿が見えて痛快だし、魅力的だ。

そして、私も飾り壷にはなりたくない、と思った。昨日、大学の先輩から夕食を一緒にどうか、というメールが来た。異性の先輩。所謂、デートというやつだ。私は暗い気持ちになった。彼の好意は(恋愛に限らず)あるようだとは思っていたが、まさかという気持ちがした。彼は、私を恋愛の対象としてみているのか、と。

先輩なのだから、敬意は払わなくてはならない。そのため、同い年の部員に話しかけるように気軽にも話せない。後輩に話しかけるようにリラックスした親しみのある言い方も、過度にした記憶はない。

そう、先輩は、私のことをほとんど知らないはずなのである。そして、私も。

知らないところから始めるのは楽しいのかもしれないが、私はどうしてもそういう気になれない。

もともとその先輩が付き合っていた女性も部活の人であったし、そのような身近なところで次を、と選ばないで欲しい。私は、彼と付き合うつもりはない。

だって、彼の先入観によって既に私は飾り壷と見られているのだから。それは、彼の言動、送られてくるメールの端々からも感じられる。

だから、私は思う。飾り壷にはなりたくない。私は、あなたの、飾り壷になるつもりはありません。



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     On a vu le film de bulletsavec une amie.




『バレッツ』という映画を見に行った。行ったのは、友人K・Iだ。彼女会うのは、ひどく久しぶりだった。映画を見てから、仕事帰りのE・Mともあった。懐かしかった。それなのに合えば、ちっとも変わっていなくて、妙に時間がずれたような気がした。

私は、彼女たちと昨日も会っていたのではないか?

私が、あっていないと思っていたことこそが、間違っているのではないか?

彼女たちは、新しい生活をしている。独り立ちして、それぞれの悩みや幸せをもって生きている。けれど、それでも彼女たちは、小学校のころのままだ。私はそう思ってしまった。

無駄な感傷かもしれない。けれども、会って会話が途切れることも気まずくなることもなかった。それが、ごく自然で、あたりまえだったから、妙に嬉しかったのかもしれない。

『バレッツ』自体は、フランス・マルセイユのマフィアの話。マフィアを抜けた男に間の手が差し迫る。友人を殺された主人公は、復讐として、友人殺害に手を貸したものたちを次々に殺していく。そのような話だった。しかし、初めから20箇所近くの銃弾を受けて生きている主人公の生命力に驚かされ、(他の人は2発くらいで倒れていた)その手術場面の生々しさに、目を閉じてしまった。

しかし、久しぶりに見たフランス映画だったので、音をなるべく聴くよう気をつけてみた。しかし、マルセイユなまりなのか、口を開いたような平ぺったい発音を聴くと、思わず微笑んでしまった。私の行っていた、エクスの街でもこんな風に発音する人が多く居たのだ。さすがに街が近いだけある。

さて、フランスへ行くのもあと少しだ。準備しなくてはならない。


そして、フランスに行く前に、もう一度くらいは今日の友人たちに会いたいと思った。








Je voudrais lire beaucoup !



最近、家のパソコンが使えない。非常事態である。それというのも、私は一日必ず一回は、パソコンを起動させて何やかやとするのが好きだからである。おそらくは、古くなってきたからなのだろうが、やや、心配である。

海外においても、何よりネット環境が整っていない場所というのがつらい。連絡手段としてパソコンがないというのに激しい恐怖を感じたことがある。普段の生活でも困るのに、海外ならなおさらだ。おそらく私はネット中毒か、その予備軍くらいにはなっているのだと思う。

しかし、先日泊りに来た刑務官の友人のおかげで、読書熱が再燃してきた。なんだか、本が読みたいのである。なんでも、というのではないが、やはり数を読まないと良いもの、悪いものや、好みのものなどを見つけることができない。パソコンが使えないのをいいことに、読書量を増やしているところである。

彼女のお勧めは、天使の…ささやきだったか、つぶやきだったか。ひとまず内容が濃くてお勧めであるらしい。彼女は割合戦闘物も好むらしく、そちらのほうへ趣味がいっているようだが、それ以外にも映画化された本などを教えてくれた。タイトルはあとでちゃんと確認しておこうと思う。

こうやって、聞けばポン!と返ってくるのがうれしい。

先日会った知り合いの女性に(友人であるとは言い難い)、お勧めの本を聞くと、何冊もあると豪語したうえで数十分かけて脱線し、結局出てきたのが浅田次郎の『鉄道員』一冊だったのには、呆れた。しかも私はすでに中学生の時に読んでいた。彼女は、それ以外勧めることなく、自分の読書量や感受性の高さを切々と語り続けていたが、なんともすっきりしないものがあった。

私は、サスペンスものやミステリもの、推理小説などが好きだ。今まで意識したことはなかったが、赤川次郎、内田康夫、宮部みゆき、高村薫、北村薫、京極夏彦、小野不由美…あげていくと確かにその傾向が強い。冒険ものも好きである。ファンタジーなどはわくわくしてくるので好きだ。

昨日も、神永学の『八雲』シリーズの6巻を読了した。次は、村上春樹を読もうか、アゴタ・クリストフを読もうか、荻原規子の『薄紅天女』を読もうかと目移りしている。

こういう読書期間も悪くないのではないかと思う。







      Yaocho est une très serieuse problème.



テレビを見ていると、ビートたけしの番組をやっていた。

サンデル教授という人物が、たけしのIQ200という番組で、日本の問題について出演者に問いかける形で考えていくものだった。

話は、政治の公約を絶対守らねばならないかどうかについて、北朝鮮の拉致問題についてなどがあげられていたが、その中でも、相撲の八百長の問題を特に興味深いと思った。

そもそも八百長とは、囲碁の非常に得意な八百屋の長兵衛という人物が、お得意さんのためにわざと囲碁に負けてあげていたのが語源なのだとか。

これについて、彼は、質問することで出演者の意見を導こうとしていたが、そのやり方が、私はどうしても、彼自身の望む答へと引きつけているような気がしてならなかった。つまり、八百長はいけないかという質問に続けて、

「嘘は絶対にいけないか」

という質問をする。もちろん、一般論で言えば、いけない。ところが、そこに彼は、特殊な例を付与する。そのことによって参加者から「一概に悪いとは言えない」という結論を引きずり出すのだ。その例として、

親子での腕相撲で、親がわざと負けてあげること

があげられていた。ほかにも、兄弟の不正行為を見つけてしまった場合、学校側に報告するかや、友人の最低な出来の作品の感想を聞かれたらどう答えるかなどの質問やシチュエーションも実際やってみたりしていた。

これらについて、結果行う行為は、感情面や相手側を考えて行動を起こすという点で共通しているらしい。だから、その人のためならば、嘘、もいいというわけである。そこには言外に八百長も許されるだろうというニュアンスを読み取ることができる。

しかし、八百長は国技とされている。国技はもともと五穀豊穣を願う儀式という宗教的役割を多くになっているのだから、八百長は許されるという人もいた。逆に相撲は一つのスポーツをみなされているのだから、やはりフェアでなければならないという人もいた。

私は、語源や、歴史、感情面から「負けてあげる」ということが、一概に悪いことではないということを理解した。しかし、相撲においては、そこにそれぞれの力士の賞金や、金銭の面でのやり取りが存在するということを考えていないのではないかと思った。

「負けてあげる」。それはいい。だが、そのために支払われた金銭は?金のやり取りをしておいて、奇麗事を並べていいのか。それは、許される行為なのか。

私は、納得がいかなかった。

18世紀、エマニュエル・カントは嘘は絶対にいけないが、誤解を与えるような発言は許容してもいいという考え方であったらしい。サンデル教授は最低な出来の作品に対して、「今まで見たことのないような作品」、「信じられないような作品だ」ということで嘘をつかずに切り抜けることができると言っていた。確かにこれだけでは、最上級のほめ言葉なのか、激しい批評なのか判断することはできない。相手に誤解させることで、発言の内容を聞き手に想像させるのである。これは、面白いと思った。

ひとまず八百長の話だが、今現在使われている八百長と昔の八百長の間には、大きな意味の隔たりがあるのだと思う。身内同士の思いやりともとれる八百長から、不正の色の濃い意味合いへ。

私は八百長は少なくとも相撲においてはすべきでないと考えている。八百屋の長兵衛だって、こんな使われ方を知ったら憤慨するだろう。






On est dans l'attente de les voir.



友人とのつながりについて。

なんだろうか、最近「続いて」いる。「続けて」いるといった方が正しいのだろうか。昨日までは、刑務官の友人と会っていた。今度は、23日に小学校の頃からの友人二人に会うつもりだ。これまたかなり久しぶりだ。2,3年は経っていると思う。しかし、こうやって自ら動かない限り、会うことはできないのだろうと思った。

特に、この二人は、割と仲が良かったくせに会っていなかった。そして、今回思いきって誘ってみると、仕事の合間をぬって会おうとしてくれている。

妙に嬉しかった。

こんなことなら、もっと早くあっておけばよかったと思うほどである。私は、こんなに友人がいるのだ。なんだか、わけのわからない気持に突き動かされて、自然と顔がにやけてしまう。変だろうか。


刑務官の友人は中学校の友人。今度会う二人は小学校の友人。そして、さらに3月には高校の頃の友人に会う予定がある。

彼女は大学も一緒だったが、学内で会うことはそう多くなかった。それが、先週学食で偶然再会し、少し話をした。そして彼女の方から誘いがあり、ハーブティーの講座を受けに行くつもりだ。1700円を少々お高いが、交際費も込みと思えばそう悪くはないかもしれない。

こうやって、交友の輪を縮めずにいなければいけないと思った。瓜生明希葉の「喫茶デプレ」を聞きながら、うきうきとする気持ちが楽しい。

私は、一人ではないのだと、なぜか確信している。


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