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Maintenant, je suis vivante.
今生きていると言うことが、どれほどのありがたいことか、考えることは多くない。
私は、生きて、悩んで、怒って、泣いて、傷つけて、それでも安穏とした生活を送っている。
テレビのニュースを見てラッキーだと思った。自分の地域が災害に遭わなかったからではない。
あたりまえの日常が、本当は当たり前ではないのだと言うことを再認識したからだ。
もし、そんな認識もしないままに日常が崩れたら、私も崩れてしまうだろう。
おそらくは、私たちの周りにも遅かれ早かれ影響は出るだろう。
私はいつでも失う可能性のある日々を覚悟しなければならない。
いつ消えてしまってもおかしくはないのだから。
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Camélia approte un nouveau.
『優雅なハリネズミ』という作品を読んだ。ミュリエル・バルべリといる女性による小説でフランスの「本屋大賞」をとった作品であるらしい。なかなかに日本びいきなこの作者。話は、自殺志願の天才少女と、同じアパートに住む自らの高い知性と隠して生きる管理人の二人がそれぞれに思いをつづる形式で書かれている。
この平凡なフランスでの生活の中に、オヅという日本人が引っ越してくることから少しずつ彼女たちの世界が動き出す。しかし、どちらかというとアパートの管理人、ルネのほうがより大きく人生を動かされたのかもしれない。「宗方姉妹」の映画を見たり、さまざまの本や映画を持ち出しては考察している。
少女パロマも管理人ルネも、世界に対して真摯に向き合おうとするためか、説明は長いし、妙に入り組んでいることも多い。ただ、本当に一生懸命考えて生きているのだなぁと思うと何となく、ほほえましくなってくる。
カメリア、という花が象徴的に出てくる。(と、私は思っている)
オヅ監督の映画の中で、苔寺のところで出てくる椿(カメリア)。ルネのアパートにいた、薬物中毒患者の青年が彼女の花壇に植えられていた花の名前を聞く(これもカメリア)。そして、アパートの新しい住人オヅと、ルネの心の交感を行う際にも彼女が頻繁に用いるカメリア。
椿という花が好きなのだなと感じさせられた。
ところで、私の家の近くの家には椿が多く咲いている。ボタリ、ボタリと落ちてくるので、そのあまりの多さにタイヤが滑りそうな気がして怖い、と母がぼやいていた。
椿といえば、あの首が落ちるようなどさっと重たい散り具合が、私も好ましく思っていないところだった。
とくに、母のほうの実家などでは縁起のあまり良くない花として、葬式の時に用いられる花なのだそうである。
この本の作者はそれを知っていただろうか。そして、管理人ルネが最後死んでしまったのは、早くからこのカメリアの花で象徴していたのか。これは偶然か、必然か。
彼女の好きな花は、日本では歓迎されるだけの花ではないのである。
帰りに近くの椿の花を見てみたい気分になった。
Le livre me donne quelque chose.
茶道に行った。ホテルで行われていた。阪急という新しくできたビルの近くだ。
茶席にふた席入り、阪急の人ごみに酔いながら、姉といっしょにカラオケをして帰ってきた。
茶道と、阪急と、カラオケと。
何が新しかったわけでもない。かといって毎日行っている行事だというわけでもない。
ただ、こうやって日々が、同じような顔をして過ぎていくことに、なんとなく苛立ちのようなものを感じた。
私は、本を読むと、書き言葉の文体がぶれる。よく、内容にかかわらず、書いている人へのシンクロをしようとして、妙に混ざったような文になってしまうのである。今、ナブコフの『ロリータ』を読んでいる。
作品中多くのフランス語が用いられていて、その音の片仮名書きが面白い。
ロリータという語はいま使われているものとずいぶん感じが違うのだなと思った。
12歳の、わんぱくでわがままで、下品なところもあるが魅力的なかわいい少女と、自称・美貌の男(今は囚人)との物語。男が回想録をつけるような形で書かれている。
そして、この程度ならば、今の時代にもありそうだと思わせてしまうところが何だか恐ろしいと思う。
私は、本を読めば、それをどこかにぶちまけたくなる。本を読んだことによって、内側にたまってくる、なんだかよくわからないもの。そのために、歌ったり、踊ったり、書いたりしてしまうんだと思う。
そんな気がする。
Avant j'ai vu la représentation de théâtre de
" The comedy of Errors "
" The comedy of Errors "
私の高校の卒業式だ。必ず3月3日。今日も、卒業生が世に出てきているのだろう。
ひな祭りの日だ。今年、ひな人形を飾り損ねてしまったけれど。
もう少し早く気がついて飾ってしまえば良かったと思った。一年に一度のこの機会を、ひな人形達は待っていたかもしれないのに。かといって、しまうのを遅くしてしまうと、婚期が遅れると聞く。未だ、それを心のどこかで信じている自分がいて、おもしろく思ったりもする。
さて、卒業式と言えば。私は、高校生の頃、九電記念体育館の近くで芝居を見た。シェイクスピアの『間違いの喜劇』。小栗旬主演のお芝居だったが、当時彼のことはよく知らなかった。卒業式を終えたその足で、九電記念体育館の方へと向かい、友達と一緒に見てきた。
そのとき一緒に見た友人と明日遊びに行く。とんでもなく久しぶりだ。
彼女も同じ大学ではあったけれど、学部も違えばサークルも違う。ほとんど接点がなかったのだが、先日会って共通の友人が大学にいることを知り、三人で遊ぶこととなった。
あの時から、5年。ついこの間まで高校生だった気がするのに不思議なものである。明日は映画を見に行く予定だ。芝居や映画や、そういうものでつながっていけるのは、楽しい。
Ce n'est pas d'arme.
パソコンが使えないので、母のものを使う。本当ならば、パソコンを使うよりも先にしてしまわなければならないことがある。しかし、こうやって曲を聴きながらパソコンの前に向かうと楽しくなってくる。
入試において、不正があったらしい。携帯電話か何かの電子機器で、入試問題をネット上に流出させ、答えをえたのだとか。ネット上の質問箱がそのように使われるのは驚きだ。
カンニングは、完全な犯罪行為だ。入試問題と知らず、親切に解答を教えてしまった人は、罪に問われなくても、罪悪感を感じるだろうと思う。それは、なんとなくすごく不当な気がする。
インターネットが使えるこの時代で、それらのものを、もう使わないようにして生きていくことは不可能に近いと思う。私自身がそうだし、インターネットが使えなくなれば、必ず多くの不都合が現れてくると思う。もちろん、使い方次第で良くも悪くもなるというのは、あたりまえだけれど。そう思わない人もいるのか。
私はナイフを握っても、人を刺したいとは思わない。自分を刺したいとも思わない。そんなことするくらいなら、りんごの皮をむく。本来の使い方をしてこそ、それは生かせるのではないのか。
あまりにあたりまえのことだ。自分でもちょっと不自然だと感じてしまう。
でも、私にとってあくまでナイフはナイフで、インターネットはインターネットだ。そう思う。